女の子は、まるで死んだように眠り続けている。
 ほっぺをくちばしで突付いても、鼻を羽でくすぐっても返事をしてくれない。
 たまに目を覚ましても、無理に笑顔を作っては泣き崩れる。
 ご飯も食べようとはしない。
 日に日にやつれていく様子が痛々しい。
 こんな時、あの目つきの悪い男がいれば、彼女を励ましてあげられるはずなのに。
 だけど、いくら文句を言っても、男が帰ってくるわけじゃない。
 僕が頑張らなきゃ。
 地面を這っていたミミズをついばみ、女の子の口元に運ぶ。
 女の子が苦しそうに寝顔を歪める。
 お気にめさないようだ。
 僕の大好物なのに。
 人間のことはよく分からない。
 さてどうしよう。
 そうだ。水を飲ませてあげなきゃ。
 空を見上げる。
 天はどこまでも青く、雨雲は見あたらない。
 神様のいじわる。
 けれど、僕はくじけない。
 考えるんだ。

 思い出した。
 女の子がトイレと呼んでいた所に、小さな池があったはずだ。
 そこから水を運べばいいんだ。
 僕って賢い。
 女の子の側を離れ、トイレに向かう。
 とてとてとて。
 半開きになったついたての隙間からトイレに入る。
 ひょい。
 白い壺のふちに登る。
 滑らないように気をつけながら、池の水をくちばしですくい上げる。
 成功だ。
 これで女の子を助けてあげられる。
 白い壺から降り、女の子ともとへ戻る。
 彼女の側に立ち、唇のすき間にくちばしを差し込み、池の水を流し込む。
 様子がおかしい。
 元気になるはずなのに、女の子は水を真上に吐き出した。
 まるで噴水だ。
 なにがいけなかったのだろう。
 考えても分からない。
 僕は無力だ。
 悲しい。
 こんな時、あの男ならどうするのだろう。
 ダメだ。
 彼女を捨てた男のことなんて、考えちゃいけない。
 僕が助けてあげるんだ。

 がんばった。
 一生懸命がんばった。
 少しでも栄養を取って欲しくて、
 いろんなものを口に運んだけど、食べてはくれなかった。
 トイレの水も、やはり飲んではくれない。
 踊りも歌も、彼女を元気付けることは出来なかった。
 どうして、僕はこうも無力なのだろう。
 女の子の顔は蒼白で、いたる所から冷たい汗がにじんでいる。
 息遣いは、深く早い。
 肉は痩せこけ、皮膚を透かして骨が見える。
 さらさらだった髪の毛はホコリをかぶり、その艶を失っている。
 もうダメなのだろか。
 諦めるしかないのだろうか。

 お迎えが来た。
 思ったよりも早かったが、それほど驚くことではなかった。
 射し込む朝陽を浴びながら、女の子は何かを呟き、静かに目を閉じた。
 穏やかな寝顔。
 最後だけは苦しまずに済んだのが、せめての救い。
 彼女の死を看取ったのは僕だけだ。
 女の子は、どんな想いでお迎えを待っていたのだろう。
 たった一人で、誰からも別れの言葉を掛けられることなく……。
 だけど、彼女はとっても優しい子だったんだから、
 神様がちゃんと天国に迎え入れてくれるはずだ。
 今ごろは、天国の子供たちと仲良くなって、笑顔でお花畑を走り回っている。
 そう信じよう。

 女の子の死体が腐り始めた。
 肉はただれ、髪の毛は抜け落ち、悪臭が辺りに満ちてゆく。
 照りつける夏の陽射しが、腐敗の進行を促しているようだ。
 膿んだ肉にはウジがわき、腐臭を嗅ぎつけた蝿が羽音を立てながら飛び回る。
 気持ち悪い。
 吐き気がする。
 怖いけど、不思議とこの場から逃げる気にはならない。
 思い返せば、女の子の世話ばかりに気をとられ、
 食事を採っていなかったような気がする。
 ぐるるる。
 お腹の虫が鳴った。
 僕の中で、なにかが叫んでいる。
 動物としての本能が唸りをあげている。
 どうしよう。
 逆らえそうにない。
 気がつけば、僕は、ウジと蝿の群れの中に身をひそめていた。
 おもむろに、女の子の死肉をくちばしで摘む。
 くちばしを引くと、乾いた音を立てながら肉がちぎれた。
 もぐもぐ、ぱくぱく。
 ごっくん。
 う〜ん、でり〜しゃす。
 これは癖になりそうだ。
 今なら、死体にたかる蝿やウジの気持ちが分かる。
 未体験の感動だ。

 女の子の頭のほうに向き直る。
 まぶたをくちばしで突き破り、眼球を引きずり出す。
 なにやら、糸のようなものを引いている。
 一口では食べきれそうにないので、くちばしの先でいくつかに裂く。
 すると、どろり濃厚としたものが、中から溢れ出した。
 すくいあげる。
 のどを潤す極上の味わいだ。
 裂いてみたはいいが、それでも眼球は、一口で食べるには大きすぎる。
 首を上下に往復させ、くちばしで細かく砕いてゆく。
 白い粘液が飛び散る。
 そろそろ頃合だ。
 ぐちゃぐちゃになった眼球をつまむ。
 ぷりぷりとした感触がたまらない。
 くちばしの中で踊っているようだ。
 鼻腔をくすぐる香りも格別だ。
 とても美味しい。
 もう、死体のない食卓なんて考えられない。
 女の子の身体は、食べられる所がたくさん残ってる。
 しばらくは食料に困ることは無さそうだ。
 でも、なにかを忘れてるような気がする。

 首をかしげながら考えていると、聞き覚えのある声が響いてきた。
「ただいま〜、観鈴ちゃん。お母さん、帰ってきたでぇ」
 ……忘れてた。
 とてつもなく嫌な予感がする。
 早く逃げなきゃ。
 ぱたぱたぱた。
 どて。
 失敗だ。
 がらがらがら。
 不吉な音。
 振り返ると、眼前の惨状に声を失うお母さんが立っていた。
 唇を震わせながら、なにやら呟いている。
 見つかったら修羅場だ。
 とりあえず隠れよう。
 お母さんは、おぼつかない足取りで、女の子の側に歩み寄る。
「観鈴? あんた、ほんまに観鈴なんか?」
 娘の亡骸にすがりつき、悲痛な悲鳴をあげる。
 そして、すぐに現実を悟ったようで、屍に顔を伏せて泣き出した。
 肉片のこびり付いたパジャマに、熱い雫がこぼれ落ちる。
「くそっ、おまえらあっち逝け! うちの可愛い観鈴から離れんかい!」
 叫びながら、屍にたかる蝿とウジを払いのける。

 いまがチャンスだ。
 抜き足、差し足、忍び足。
「待たんかい、黒いん……」
 ぎくっ。
 恐る恐る振り返る。
「……あんた、観鈴に何をしたん?」
 まずい、疑われてる。
 でも、白状すれば助けてくれるかも知れない。
「素直に吐いたら、苦しまないように殺したる」
 ダメだ。白状しても殺される。
 こうなったら、しらを切り通すしかない。
 首を左右に振る。
「ほんまか?」
 こくん。
「ほんまに何もやってないんやな?」
 こくんこくん。
「そうか、それなら……」
 表情を和らげ、視線を宙に泳がすお母さん。
 助かったようだ。
「くちばしの先についてる白いのはなんや?」
 !!!!
 ばれてた。
 逃げなきゃ。
「待たんかい、われ」
 そう思った時には、僕はお母さんの手の中に収まっていた。

「……この糞カラスがゴルァ」
 ひいいい。お助けを。
「あんたは、ジンバブエの審判にも劣る……逝ってよし!」
 僕を握り締める手の平に力が込められる。
 ぎしぎしぎし。
 骨がきしむ。
 意識が薄れてゆく。
 お花畑が見える。
 もうダメだ。
 死を覚悟した瞬間、耳障りな高い音が響き渡った。
「なんや、パトカーのサイレンか?」
 不意に、身体を締め付ける手の平から力が抜けてゆく。
 耳障りな音は、この家の前で止まった。
 がらがらがら。
 木の板を引く音。
 続いて、何人かの男の叫びと足音が聞こえてくる。

 ごつごつした顔立ちのおじさんが、僕らの目の前に現れた。
 おじさんは、脇から白い紙を取り出した。
「神尾晴子だな。死体遺棄の容疑で逮捕する」
 突然のお客さんに、目を丸くするお母さん。
「ちょっと待ってや。うちはいま帰ってきたばかりで、
 観鈴が死んでるなんて、これっぽっちも知らんかったんや」
「話は署で聴こう。神尾晴子を逮捕しろ」
 銀色に光るワッカが、お母さんの手首に掛けられた。
 どこかへ連れて行かれるらしい。
 とっても怖い所なのだろうか、お母さんは、必死に抵抗している。
「そうや、黒いん、あんたなら事情を知ってるはずやろ。
 おっちゃん達に説明してや。うちは無関係やて」
 僕はもう、厄介なことに関わるのは御免だ。
 聞こえないふりをしよう
 とてとてとて。
「この薄情もん! 呪ったるからな」

 無限に広がる青い空。
 彼女は今も、吹き抜ける風を受けながら待ち続けている。
 終わることを知らない悲しみ。
 だから、僕は助けなければいけない。
 届くだろうか。
 悲しみに暮れる彼女を捕える天の頂に。
 届かなければならない。
 遠い昔に交わされた約束を果たすために。
 僕は羽ばたく。
 風に乗って。
 遥かなる空を目指して。
 彼女に、幸せな記憶を届けるために。

「誰だ、余の眠りを妨げるのは誰だ……」
 少女が身じろぎした。
 精気を失った翼をかばうように起き上がる。
 常闇に、暖かい光が揺らめいている。
「これは……」
 闇を貫く閃光を見つめながら呟く。
 なぜだろう。
 どこか懐かしく、どこか安らぐ。
 少女は、おもむろに手を伸ばす。
 あふれる光を掴むために。
 目もくらむような輝きが、少女の身体を包み込む。
 そして、彼女の意識に、翼を持たない母子の記憶が流れ込んだ。
「これは腐乱死体ではないか! おまけにウジまで沸いておるぞ!」
 絶叫が、深遠なる闇に吸い込まれてゆく。
 少女は錯乱し、のたうちまわる。
 永遠なる時の中で待ち続けた少女に届けられたのは、
どこまでも救われない悲しい記憶だった。

 ある夏の午後。
 幼い娘の手を引きながら歩く母の姿があった。
「ママ、アレなあに?」
 娘が指差す先を見上げると、鳥らしき生き物が落ちてくるのが認められた。
「カモメさんじゃないかしら」
 チラッと見ただけで適当に答える母。
 しかし、娘は納得しない。
「カモメさんじゃないよ。だって、女の人みたいな格好をしてるもん」
 娘の指摘に驚き、空を仰ぐと、
 確かにカモメなどではなく、背中に羽の生えた少女に見えた。
 幻でも見ているのだろうか。
 そう思うが早いか、少女の身体がアスファルトに叩きつけられた。
 白昼の悪夢に驚いた母子は、声にならない悲鳴をあげながら逃げ去った。
 残された少女の身体は、目も当てられないほどに損傷している。
 叩きつけられた衝撃で、全身の骨は砕け、臓器は破裂し、
 真っ二つに割れた頭部からは頭蓋骨が顔をのぞかせている。
 手足は奇怪な向きに曲がり、翼はぼろぼろに破れ、
 少女の屍から空を自由に翔ける翼人の姿を想像することは難しい。
 そしてその側には、少女を哀れむように見つめるカラスの姿。
 ……もしかして、僕のせいなのだろうか。
 僕が余計なことをしたから、彼女は死んでしまったのだろうか。
 そうだとすれば、悔やんでも悔やみきれない。
 だけど、これで良かったのかもしれない。
 無限の苦しみに捕らわれるくらいなら、
 あてのない救済を待ち続けるくらいなら……。
 僕の使命は終わった。
 旅に出よう。
 翼を広げ、舞い上がる。
 吹き抜ける風と併走するように、水平線の彼方を目指して羽ばたく。
 少女の想いを胸に刻みながら……。

 完

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